一時ほど爆発的ではないものの
(http://jellyfish.blog.jp/archives/1025787859.html 参照)、
今でも上記作品を検索していてこのブログにくる人が多いようなのだが、
作品のほうはもう読まれたでしょうか。
『断崖』は読後にジワジワ来るっていうか、
時間が経っても断続的に考えさせられてしまうようなところがある。
それが力のある作品の証拠、なのかもしれない。
今回は、『断崖』の読後に考えたことについて書いておこう。

とはいっても、あらすじについて書く気はない(作品を読んでほしい)ので、あしからず。
実は「全体の流れを把握したい」と思って主要キャラの年表まで作ってしまったけど(笑)、
それはここでは公開しない。いつかするかもしれないけど。
本項は、作品を読んでからのほうが楽しめるんじゃないかと思うよ。

『断崖』が読者を引き込む作品だということに異議がある人はそういないと思うが、
そのストーリー展開には「なんかヘン」「納得いかない」とは感じなかっただろうか。
私はそう感じた。大いに違和感があったというか。
つらつら考えていて、その違和感は「男性キャラクター(の造型)」にあるのではないかと思った。

だってさ、主人公であるお梅はどう考えても、いい女だ。
器量よし(で吸い付くような色白美肌)なのはもちろん、純粋で情け深く、
武子ほどの才覚はないにしろ、メンタルも身体も結構タフ
(娼婦として生きるには、ここ大事)。
そんなお梅が、いくら世渡りが下手だからといって
あんなに非道い目に遭ってばかりというのは、納得いかないではないか。
娼婦の身でありながら、その生涯で三人の男たちに、この上なく深く愛されたお梅。
そのお梅が、苦界や娑婆のどん底で苦しみ、のたうち回っていたとき、
男たちは何をやっていたのか。

_-19

(相思相愛の相手と抱き合い、性を初めて肯定的なものとして感じるお梅。
画面下部の黒い空間は、断崖と女性の胎内の、両方のイメージなのでしょう、多分)
【C】 曽根富美子
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ほとんど何もやってないんだな、これが。
どいつもこいつも何の役にも立っていない、腹立たしいほどに機能していない。

一応、三人の男たちをざっくり紹介しておこう。(登場順)

■直吉:
お梅が買われた女郎屋の番頭。なぜかスキンヘッドで来歴不明。
当時まだ11歳のロリータお梅を女郎として仕込んだ頃から
お梅を特別な存在と思っていた模様。

■中島聡一:
爽やかイケメン大学生。たまたま街に出られたお梅を素人娘と思い、互いに一目ぼれする。
医者の息子のお坊ちゃまながら、後に政治運動(社会主義活動)に関わる。

■大河内茂世:
いろいろあった(ざっくりすぎる?)後のお梅を身請けする、製鉄所のオヤジ。
(新日鉄がモデルの)製鉄会社の社員なだけでも当時は結構エリートなうえ、
実は創業者一族に連なるセレブだが、職人として地味に暮らしている。
アイヌ民族の長や仙人を思わせる風貌だが、それとは何の関係もない。

こいつらがさー、みんな自分の命よりもお梅を大事に想っているくらいなのに、
お梅をちっとも幸せにできないわけよ(憤)。

直吉、凄腕の番頭として貯め込んだ金、何に使ってたんだ。
その金で、隠し部屋のお梅を身請けできたんじゃねーのか。
聡一、出所後に隠し部屋のお梅を一度見に来たきりで、どこに消えたんだ。
どん底でこそ、「地獄から一緒に這い出さなきゃならないんだ」
「いっしょに生きのびてみせるよ」じゃなかったのか。
そして大河内のオヤジ。母親に頭が上がらず、
愛の巣のセキュリティすら整えられない無能さは何なんだ。
一族の反対を押し切って身請けしたわりに、シャバでのお梅の苦しみを見て見ぬ振り。
娘の道生(みちお)に「父さんは母さんを守れなかった」と責められて当然。

憤りでつい言葉が荒れてしまったが、
三人もいながら揃いも揃ってこんな役立たずなのである。
何を考えているのかわからない男たち。あまりにもお梅が不憫すぎる。
 
……しかしある日、ふと思い至った。
男たちは一般的なキャラクターというより、なにかの「象徴」なのではないかと。
だからこそ作中で、あれほど役に立たない(ように設定されている)のではないか。
直吉は、「仕事」。娼婦という「醜業」においても存在するプライドやプロ意識。
聡一は、(社会性を持たない、エロス的な)「男女の愛」。
大河内のオヤジは、「結婚」(という制度)と「家族」。
(※定位家族ではなく生殖家族のほう)

お梅は直吉に、「毒の泥のなかで咲く、清らかな蓮の花」のイメージで語られる。
そして物語の終盤、戦後の混乱した町で、美しい顔を自ら黒く汚して生きていくお梅は、
スラム街の聖母のように描かれている。
お梅がそんな、どこか宗教的でさえある聖女・聖母的ヒロインとして運命づけられていたのであれば
男に庇護されるような世俗的な幸福、ハッピーエンドが与えられるわけがない。
だから、言動不一致な男たちに起因する、あんまりな展開だという気はしても
直吉(仕事)も聡一(男女の愛)も大河内(結婚)も、
最初から、お梅を幸せにできるはずなかったのだ……。

まあ、考えてみれば女性キャラの造型だって、似たような不自然さがある。
お梅と武子は、二人合わせて一人の女のようなキャラクターなのだ。
東北から売られてきた二人の美少女、お梅は娼妓として、武子は芸妓として、
二人ともやがて室蘭一と呼ばれるほど名を馳せる。
お梅が恋人と抜き差しならなくなり、どんどんひどい境遇に陥るのに対して
武子は男にはほとんど入れ込まず、
パトロンを転がしながら芸者の置屋(料亭?)を買い取るまでに出世する。

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(この場面で武子が着ているような、黒地に大輪の薔薇柄のアンティーク着物を持っている。
黒留袖ではなさそうだし、どういう着物なんだろうと謎に思ってたけど、
粋筋のベテランお姐さまのだったのかなー)
【C】 曽根富美子

一般的には、お梅的な「愛情や自己犠牲」と武子的な「野心や打算、シビアさ」の両方が、
バランスはともかく一人の女のなかに共存していると思うのだが
(自己犠牲の心は、私には皆無だけど…)、
お梅と武子はそれぞれどちらかしか持たされていない。
当然、二人は対極にある、偏った(極端な)人生を生きる。
「幸せ」だったのは、どちらの女だったのか。

あ、仲間内でひとりだけ不器量な、可哀そうな道子のことを忘れていた。
愛すべき愚かさと限りない優しさを備えた女。
(ちなみに、お梅の娘・道生は、道子の名前の一字を受け継いでいる)
道子は……天使だったんじゃないだろうか。今までそんな女に出会ったことがないのだけど。
そういう女、昔はいたのだろうか。今も、どこかにいるんだろうか。